2013-05-24

今、死にゆく時間をともにすること


昨日、日本福音ルーテル社団(JELA)のプログラムの一つ、リラ・プレカリアで表題の副題をつけた講演をさせていただいた。「日本人の死生観とキリスト教信仰」を大きな主題として、現代の日本で死を迎えるということがどういう現実であるのかということを探りながら、そこにキリスト教の信仰はどういう支えを見いだしていくのか、また、その神様の救いの働きへの参与を看取リの中でどんな風に具体的に与えられてくるのか。ということを考えてみた。リラ・プレカリアの音楽の賜物についても、少しだけ触れることが出来た。
以下は、項目レジュメ。

1. 伝統的な死生観(死の受容システム)
(1)自然志向型の霊性
(2)共同体志向型の霊性
(3)母なるもの
2. 現代の「死にゆくこと」
(1)医療技術に囲まれて
(2)失われた共同体(コミュニティーの崩壊)
(3)求められるより良い準備
(4)あらためて問われる伝統的死の受容システム
3. 死にゆく時間を生きるために
生きることを支える三つの柱
 時間の柱・関係の柱・自律の柱 
 死にゆく時間:全ての柱が弱まる時に信仰は何をみいだすのか
(1)明日を失う
(2)具体的な関係のなかで
(3)死と向かい合う自己
(4)死にゆく者のための時間
4. 死からいのちへ 具体的な関わりをとおして 
(1)分かち合われるみことば
(2)「死」にまさる「いのち」の確かさ
(3)時間的なものから永遠へ

3の始めに紹介したのは、生きることを支える三つの柱だが、これは、小澤竹俊氏による『13歳からの「いのちの授業」』による。小澤氏は在宅ホスピスの現場で多くの患者と家族を支える医師だが、同時にその働きから、「いのち」の大切さ、その意味についての深い問いを学ぶための授業・講演を各地で行っている。





2013-05-16

『私たちの死と葬儀〜キリスト教の視点から』(本のひろば 特別号)

 キリスト教関連の新しい出版を紹介する「本のひろば」の特別号で、死と葬儀に関連して短く書かせていただいた。


 近年は、死や葬儀に関連する本が一般書店からも続々と出版されていて、学ぶことは多い。キリスト教の信仰をもって、私たちがこの現代の日本において「死」や「葬儀」という問題を考える時、大切にするべきことは何か。いったい、私たちは今の時代にどんな風に生きて、そして死んでいくものなのか。
 聖書そのものからキリスト教の死生観や死に関わる教義的な説明をする本も実はいくつも出版されてきているのだが、いろいろなものを読んで、学ぶための一助となればと思って書かせていただいた。一般的なことではなく、自分が死に直面していかざるを得ない。その現実とどう向かい合いながら、信仰を生き抜くのか。どのような希望と約束が与えられているのか、確認することが出来るように書いてみた。また、いくつかの参考にさせていただいてきた本も紹介している。ただ、紹介したい本はもっと沢山あるので、このブログを通しても改めて何冊か紹介していきたい。
 この冊子は一般に販売されるものではないので、キリスト教関係の書店などで、何か本をお求めいただき、お尋ねいただければと思う。(「本のひろば」は、30ページほどの冊子で、毎月発行され、年間の講読料1300円ほどである。)

2013-05-09

教区50周年に考える


 今年は、ちょうど日本福音ルーテル教会東教区50周年ということで、この54日に記念大会がひらかれた。しかし、この50年記念は、東教区に限ったことではもちろんなくて、日本福音ルーテル教会が1963年に教会の組織を整えて、九州教区、西教区、東海教区、東教区の4つの教区を誕生させたということである。だから、今年は北海道特別教区をのぞく4つの教区は、それぞれにこの50年の節目を記念し、様々な催しを企画している。
 50年を記念し祝うことで、この歩みについての神への感謝をもって、それぞれに喜びと新しい宣教の力に満たされる。それはそれですばらしいことだと思う。けれども、そのことだけで終わったのでは、この50年を記念することにならない。むしろ、この時にこそ、「教区」の存在意義と展望を新しい宣教の大きなビジョンのなかに問い直すことが必要なのではないか。





教会合同と教区制
 教区制が布かれたのは、1963年、東海福音ルーテル教会と旧日本福音ルーテル教会との教会合同の時である。この教会合同には、もともと、日本ルーテル教団、西日本福音ルーテル、近畿福音ルーテルもともにその合同の道を模索したという経緯があったわけだが、それも含めての合同ということであれば、かなりしっかりとした教区制としての体制が整えられたことだろう。この合同においては準備の段階からそれぞれの海外のルーテル教会による宣教によってもたらされた伝統が、その宣教母体との関係を維持しつつ日本の一つのルーテル教会として成立できるように、地域ごとのまとまり(部会)を形成して合同することが計画されてきた。この考えが教区制成立の基礎にある。結論から言えば、合同そのものも当初の計画通りにはすすまず、限定的な合同ということに留まった訳で、新しい教会の姿は期待された数的基盤を持つことは出来なかったが、すでに教会関係の文書事業などでの協力関係の中にあった日本のルーテル諸教会が新しい宣教の基盤を求めた動きがあったことは今日においても引き継がれている。
 しかし、いずれにしてもこうした教会合同の中で全体の組織を教区制によって整える時に、実はそこの教会理解の根本的な問題を抱えることになった。
 すなわち、東海福音は旧日本福音ルーテルと根本的に違った考え方を持っていた。東海福音ルーテルの伝統は会衆派制にあると言われ、各個教会における信徒・会衆の自覚的・主体的信仰生活に重きを置く。各個教会こそが教会としての自主・独立の単位であって、教会の本質を各個教会において考える教会論に立っていた(東教区50年シンポジウム、北尾一郎牧師談)。もともと、東海福音ルーテルの宣教母体となったALCアメリカルーテル教会は、ドイツ系のルーテル教会が軸となって、デンマークやノルウェー系のルーテル諸教会との合同によって出来た教会だ。このALCは後にLCAとの合同で現在のELCAを組織することになる訳だが、その合同の話し合いに入る前まではミズーリシノッドとの交わりも深く、基本的にはより保守的なグループであった。17世紀敬虔主義の流れを強く持ち、主体的な信仰生活とその自覚の中で教会を組織する各個教会主義を重んじる傾向が強いということになる。
 それに対して、旧日本福音ルーテル教会は監督制とまでは行かないけれども、小会・中会・大会というより大きな教会の組織単位をもつ長老派制の考えに近く、各個教会における意思決定よりも上位に位置づく全体教会の方針を重んじる制度を持っていたという(同、北尾師談)。ただし、それでも厳密な意味で監督制を持っていた訳ではない。もともとは宣教師会が中心に日本の宣教についての全体の方針や意思決定などを行ってきた仕組みを日本人牧師が引き継ぐ形で、教会が成り立ってきたことによるだろう。全体教会が一つの教会として法人格をもち、宣教の主体として諸々の計画の実現にむけた意思決定を行ってきた旧日本福音ルーテルは、東海の考える各個教会の自主独立の精神に比べるとはるかに中央集権的な性格と持っていたということだろうと思う。
 教区制は、それぞれの宣教母体との関係とその独自性を尊重しつつ、一つの教会となるための行政区分として機能する一方、東海の考える基本的教会理解を教区において保ちつつ全体と調整をしていく中間的な制度をもって合同に資する形と結果的になったといってもよいだろう。

教区制度と教会性
 とにかく、日本福音ルーテル教会はその合同教会という性格から、実はその教会の制度的な成り立ちについては、いい意味で言えば融通無碍な、悪く言えば曖昧ではっきりとしない点が見られる。
 教会憲法上、成り立ちは全体教会が各教区を置く形をとり、監督制のような方向を取っているのであって、それは各個教会を軸に考える道筋とは異なる考え方である。しかし、実態としては教区には法人格もなく、宣教の主体としての位置づけは弱い。ただし、教区は全体教会とともにその地域における独自の目的のために牧師を招聘できるものとされた。つまり、その意味で限定的ではあっても教会性を持つ。
 しかし、あくまで宣教の主体は、各地域教会、つまり各個教会に置かれており、牧師は任命制ではなく各個教会による招聘と応諾の原則が保たれている。教区は各個教会が牧師と代表を選出し教区としての総会を持っているが、この教区と全体教会との関係においては、各教区の教区長が全体教会の常議員会を組織するということによって成り立っているということではあっても、全体教会との連携について特別な規則はない。また、教区長も、全体教会の総会議長も各個教会の牧会には直接介入する権利はない。各個教会が基本となって弱い教会を支え合う連合体を形成して教区、そして全体教会を形成しているかのような性格を持っている。各個教会はより上位の意思決定に従うという構造にはなっていないし、また、監督・指導を受けていくというヒエラルキーもない。
 つまり、規則上は、全体教会から始まり教区が置かれるように監督制のような組織形態を持っているにも拘らず、現実的な面では各個教会主義的な色彩が強いと言わざるを得ない。全体教会は方策を立てても、その方策を実行するための任命人事権は全体教会にはない。全国総会の選挙によって決まる総会議長初め常議員、各常置委員はえらばれるけれども、その議長にも常議員会にも各個教会の牧会的な問題に介入する特別な権威は与えられてはいない。
 そのために、宣教の主体が各個教会という原則がある意味で支配的な教会の構造を持っているということになるが、それでは、各個教会がそれだけの実力を持っているのかということになると極めて基盤の弱い現実が見いだされる。そもそも宣教師によって開拓され、会堂を与えられ、その奉仕によって維持されてきた小さな教会が沢山たてられてきた現実を思えば、各個教会が自立した財政的基盤と役員会組織をもっているかといえば、必ずしもそういう始まりではないし、その教会に対して自主自立した教会経営、宣教の主体としての役割を期待するにはなかなか厳しい現実がある。

アスマラ宣言と教区自立
 19694月、日本福音ルーテル教会の内海季秋総会議長は、エチオピアのアスマラにおいて行われたJCMにおいて、海外からの日本伝道に関わる一般会計への支援について1974年末までに補助金をゼロにすると宣言した。日本の教会の自給を目指す意気込みを表したものであるが、これを受けて本教会は自立路線をとることになる。同年の6月からの常議員会では、この自給自立路線を公式に方策として位置づけ、各個教会と教区ごとの自立計画が立てられた。
 1972年の総合自立計画は、それまでの局制を廃して合局制をとり全国レベルでの取り組みと教区ごとの取り組みをわけながら、全体の自立計画を策定し、教区主導の宣教と自立路線が策定されることとなった。
 教区における一種教会が二種・三種教会の自立を支援する教区ぐるみの自立という方策に具体化する。各個教会における自給自立一辺倒ではなく、それぞれの教会の特殊性を考慮しながら、諸教会を維持し、なおかつ教区内の自立と連帯によって、全体の自給を実現していく方策は、教区という一つのまとまりをより具体的な宣教主体として表すものであったと言えるだろう。こうした宣教方策の方向性は、80年代にはさらに成長する教会を標榜することになる。

教区と宣教の主体
 基本的に、日本福音ルーテル教会の宣教主体は、各個教会にあると考えられてきている。新しい開拓伝道は、地方教会の宣教の展開のなかで生み出されてきたか、あるいは非常に熱心な牧師や宣教師の働きによって、ある地方一体に教会の種子がまかれていくという形で展開されてきたと言えるだろう。
 こうした各個教会、牧師や宣教師の働きから全体教会として大きな宣教計画のなかで開拓伝道が企図されたのは、1965年から66年にかけて「大伝道計画」が実施にきろくされるだけではないだろうか。ニューミッション計画の中で、海外からの支援が限定されて用いられるという外的要因がたぶんに影響しつつも、「全国レベル開拓伝道計画」が全体教会のもとにたてられ、取り組まれたのは、おそらく後にも先にもこの時に限られているかも知れない。土地・会堂(多目的)・牧師配置を同時実施する計画で、北九州黒崎・四国高松・岡山・八王子・北海道釧路の5か所で着手され、結果的には、8カ所に限定されて資金的な行き詰まりもあって終息する。
 その後は、東教区に見られるような教区主導の宣教の姿が見いだされる。教区内募金の用地取得制度による、いわゆる鶴ケ谷方式の開拓伝道(1972)、また、地域のいくつかの個教会と会員の資金借入による共同融資による、新規用地取得制度の藤が丘方式の開拓伝道(1983)がそれである。しかし、教区主導といっても、極めて限定された形で展開され、以後同様の方式による取り組みは続かない。
 実際に、80年代のはじめに都内のある教会が建物の立て直しを機に、新しい宣教の展開の必要性を考えて教区に移転の問い合わせをしたが回答が得られなかったという。つまり、教区には新たな宣教の展開を考えていく受け皿がそもそも存在しないのである。つまり、教区は宣教の主体としては成り立っていない。地域の各個教会の連絡と調整役に留まり、教区主体のプログラムは墓地関係や諸々の研修計画など極めて限定的な取り組みとなっているのが実情である。

PM21とこれからの教区
 80年代の後半には教区及び全体教会としての自給についての一定の成果を見せてはいても、宣教全般については停滞傾向、青年の不在、受洗者数の減少などが顕著になる。90年代に入ると、各教区の宣教の状況には不安が満ちてくる。東教区の教区常議員会がいち早く、こうした全国規模の将来的見通しについて統計的な資料をもとに厳しい評価を出しながら、東教区の責任を自覚して具体的な方策を模索した。この現実の見通しに対しては信仰的な希望が少ないと牧師・信徒からの批判を受けたほどだ。それ故に、こうした現実対応の大胆な計画ということは全体の中にうまく噛み合なかった。しかし、当時の東教区常議員会の厳しい分析はほぼ正しかったことが後には明らかになる。
 そして、70年代からの標榜された自給自立のみちは、同時に計画がスタートする収益事業によってまかなう方式を取ってきたのであり、全体の財政は辛うじて自立したように見えたているにせよ、それは、一般会計に留まるのであって、宣教の体制を整える全体的機能、あるいは土地建物などにかかるものは収益の果実に頼らざる得ないものであったし、この体質が今日に深刻な課題を残すことにもなった。
 また、こうした自給自立の方針は教区の基盤の脆弱化を招いたし、教区の自立を標榜するがために人事が財政に主導されるという弊害をもたらすことになったといってよい。教区は教区の独自性をもって宣教を考える主体としては機能しえないのだ。むしろ教区内における自給をまかなうために牧師給の負担を抑えるように人事を考えざるを得ない状況になっている。兼任体制は隣の教会といってもその距離が非常に遠い地方から始まらざるを得ない皮肉を結果したのである。
 2002年の教会総会は、90年代からの深刻な教会弱体化の見通しから、出来る間に体制を整えるべきと判断し、模索された新しい方策PM21を採択した。これは、全国レベルで取り組むべき、次世代育成、信徒教育、そして牧師のレビュー制度と継続教育の課題を本教会主導で取り組み、同時に、教会の組織的変更を進めて、教区を軸に考えた宣教方策を、全体教会に一元的に集約することはずの方策である。
 そもそも、63年の合同とともに行政は4局制をとったが、70年代には合同局制へと移行した。それも次第に実態が弱体化し、全体教会の中央集権的体制を軽量化しするために合同局制を排して、教区を軸にする方針へと90年代半ばに実行に移されたはずだった。しかし、90年代に予測された将来の教区自立の見通しはくらく、少子高齢化はしっかりと統計的に見通されたことがその後のPM21の方策を模索させることになったのだ。宣教力を集中させて、予測される危機を乗り越えていこうとするものだ。
 つまり、教会組織の再編をおこなって教区は廃止の方向をとる。各個教会は、複数で合同し新教会、もしくは教会共同体を形成する。そうして、弱体化した各個教会の組織的転換を図り、各個教会、教区、全体教会という三階建ての構造を解体して、シンプルで集約された教会組織体を形成する方針だった。各教区はすでに兼任体制を取らなければ、教区としての自立が成り立たない状況もで、本当に必要な宣教の体制を整えることができないし、また、現実的に牧師の数も少なくなってきたために、新しい組織体制を整えることが求められた。この方針は全体教会の基本的な合意に至って、採択されたはずだったが、当時まだ各個教会の運営にも、教区としての人事体制にも余裕のあった東教区は独自の宣教方針を掲げており、全体教会との歩調は必ずしも整ってはいなかった。
 結局、新教会の組織もしくは教会共同体の組織化は一元化されずに、各個教会の自由な判断にまかされることになり、この大きな教会改革の基盤が崩された。そして、PM21の後半は基本的にはこの方策の見直しという方向になり、方策の多くは中途半端なままに終結し、第6次宣教方策に引き継がれた。しかし、この間PM21についての十分な検証はなされていないし、結局教区主体の宣教体制に戻っているように見えながら、その基盤の弱体化はますます深刻化しているのが実情だ。

 教区は自給自立の路線において一定の役割を果たしてきた。しかし、今はむしろそのことによって弊害がもたらされていないか。宣教の主体として、教区はそれぞれの教区、地域における各個教会を支え、新しい宣教を展開するためにどのよう働いているのか。
 今、私たちがこの教区の50周年の記念において、どのように教会の組織を整えるのか。教区はどういう道をすすむのか。実際、そのことこそが問われているのである。宣教する教会としての自覚とそのための具体的な方策に歩みを進めていくための50周年でなければならない。これは、単なるお祭りで終わらせるわけにはいかない。

 東教区50周年記念大会の締めくくり、派遣聖餐礼拝はほんとうにすばらしい礼拝であったと思う。「派遣」というテーマがはっきりと表され、集まった私たちは恵みに満たされて喜びと感謝のうちに新しい歩みへと押し出されたと思う。その燃える心があの時だけに終わるのではなく、それぞれの教会の宣教、一人ひとりの生活の中でみことばを分かち合い、隣人に仕えていくあゆみへと結ばれていく必要がある。そのために教区はどうあるべきなのか、教会組織はどんな形をとることがよいのか。私たちが次の世代にむけて自らを整えるべきときなのだ。