2012-06-21

日本のキリスト教受容の問題

錦糸梅が、鮮やかに梅雨の陽射しの中に輝きます。

京都文教大学の臨床心理学科の秋田巌教授のお招きをいただいて、「日本におけるキリスト教受容あるいは非受容について」というタイトルで講演をさせていただいた。
秋田先生は、ユング派の精神心理学のご専門だが、日本ではいわゆる「西欧」の様々な精神療法が盛んに紹介され、用いられているのだけれども、そうした学説や方法論が果たして日本の文化・社会という西欧とは全く異なる文脈の中に生きる日本人に本当に有効なものなのか。また、日本人の心性というものをもっとより深くとらえることがなければ、そうした西欧のものを用いるにしても不十分であったり、誤解が生まれてくる可能性もある。おそらく、そうした問題意識から、日本の心理療法が取り組む日本人の精神のその背景を深く探る研究をされ、様々な専門家を招かれているようだ。特に今回は「宗教と日本的精神性」という主題のもとで、キリスト教と日本人の関係についての学びをされたいということで私にお声をかけていただいた。

http://www.kbu.ac.jp/kbu/gakugaimuke/120620-rinsho/index2.html

1時間10分ほどの講演の後20分ほど秋田先生との対談となった。
講演は、はじめに日本においてキリスト教が受容されているのか、いないのかという問題から考え始めた。一方でクリスチャン人口が1パーセントを超えないという現実を見据えながら、他方ではキリスト教が教育や福祉などに果たして来た役割やクリスマスやキリスト教式結婚式が多くの人々に好まれていることなどに日本的な受容の仕方があることをお話しした。つまり、受容されているという側面と、少しも受容されないというその両側面がある。この日本的な受容の仕方こそが、日本人の精神性によるものではないかというところが、まず出発点。
続いて、16世紀キリシタン時代のキリスト教受容、19世紀の明治以降のキリスト教受容の特徴を示した。日本におけるキリスト教受容ということの問題を考えるとき、この二つの時代のあり方を見ることは非常に重要。キリシタン時代にはおそらく日本人の3パーセント弱近くにまでキリスト教が広まったともされる。日本人は宣教師からも道徳的で理性的なその人間性が高く評価されていたことも興味深いが、民衆また下層武士階級に急速に広まった理由はキリスト教の新しい神観念とその人間理解であったことは重要。宣教師の実践に裏付けされた一人ひとりを平等に重んじる人間観は当時の人たちへ、福音を具体的に伝える力であっただろう。およそ、250年にわたる迫害があり、明治期からのキリスト教が没落武士階級とインテリ層へと浸透したことはキリシタン時代とは全く違った日本におけるキリスト教の性格を形成してきていると考えられることなどを概観した。
次にキリスト教が出会った日本の文化・宗教性を探ってみた。特にキリスト教との関連で語られてきた課題を丸山真男、遠藤周作、R・ベネディクト、イザヤ・ベンダサンなどをあげながら整理し、仏教、神道などの具体的宗教の奥にある日本人の宗教性をたどる方法をとった。いつものように自然志向型の霊性と共同体志向型の霊性の二つが基盤にあることをお話しして、そして、現実にはその歴史の中で、それぞれの政治的支配権力の下にある状況がその日本人の精神性に大きな影響を持っていることを示した。
最後に、現代日本中でキリスト教が受容されるという場合の可能性と課題についてお話をした。いわゆる伝統的な日本的宗教性が根こそぎその基盤を失ってくるような現代のなかで、日本人の中にどういう精神的課題があるのか、そこに向けてキリスト教の持っている福音が何を示すものかということと、また具体的にそうした深いもんだいに応えていくためにも、一般的な意味でキリスト教がまず示していくべき課題、例えば正義や平和への具体的な貢献、現代社会への倫理的な提言、また特に自然や環境を含めた現代の課題に答えていくべきキリスト教の枠組みというものをしっかり示すこと必要のあることをお話しした。
全体は短い時間で消化不良となってしまったが、いずれ論文としてまとめることにしている。



2012-06-09

脱原発にむけて



野田首相がその必要性を表明し、大飯原発の再稼働に向けて大きく舵が切られた。
その安全性は何によって保証されるのかは明らかでない。というよりも、福島の事故について、十分な検証もなければ、被害について補償さえ手が付けられず、今も大勢被災者が自らの家に帰ることさえできない汚染が続いている中で、どうして、「絶対」という言葉を何回も使って、新たな被害を生まないなどという決意を口にすることができるのだろうか。

日本福音ルーテル教会は、この5月の総会で「一刻も早く原発を止めて、新しい生き方を」という声明を採択した。その全文が「るうてる」6月号に掲載された。以下のpdfファイルの4ページ目。
http://www.jelc.or.jp/data/pdf/201206.pdf

私たちが、神の創造された世界に対して保全の責任を持つことを根拠として、いのちを守る重い課題を受け止めることを自覚した声明になっていると思う。実際に過疎の地域社会と社会的弱者に犠牲を強いる仕組みは、たとえ原発稼働そのものが仮に一応無事になされたとしても、到底容認できるものではない。原子力エネルギーを利用しようとする限り燃料加工から廃棄物の処理に至まで、放射能の汚染はさけることができない。その影響は甚大だ。
声明のなかで、「原発が人間のいのちへの途方もない脅威であり、いのちと両立しえない存在」と明言していることは重い主張だ。

また、実際にこの原発のない社会を選び取るためには、私たちが現在享受している生活をそのままにできないことも自覚して自らの生活を見直し新しい生き方を求めていくことを述べている点も重要なポイントだ。
この声明を出発点として、原発をめぐる様々な課題に具体的にどのように取り組むことができるのか学び、考えていくという表明は、単に原発反対というだけではない継続的に自分たちの問題としていこうとするものだ。

自分たちの教会の声明(もともと信仰と職制委員会から出された答申がベースになっている)で、我田引水ということではないが、教会と社会に向けて現したものとしては、意義深いものだと自覚している。しかし、この声明に満足するのではなく、これからの取り組みこそが大切なのだ。