今年も、臨床牧会セミナー(ルーテル教職神学セミナー)の季節となった。
今年度はリトリート。教職たちが自らのいのちのありようを神との関係の中に見つめ直し、新たな息吹に生かされることを願っての企画だ。
テーマは、「召命の再確認——「主がお入り用なのです」(ルカ19:31)」2月11・12日の両日を日本聖公会の施設「ナザレの家」で黙想の時を過ごす。
忙しさの中、ほとんど「仕事」と化している私たちの日々は、本来は、神に捧げ、人々に支えるものとしてそなえられたもの。教職として召されている私たちはいったいその恵みを忘れかけているのかもしれない。
もちろん、現代社会の中で、牧師もまた一人の労働者であるし、適切な働き方とその生活の保障が考えられなければならないことは言うまでもない。
けれども、教会の教職となるということは、やはりその働きにおいて与えられる特別な恵みを試練と共に知っているはずなのだ。
その喜びは、ただ、神との関係の中に見出されるのかもしれない。
それなのに、私自身もそうだけれど、なかなかその恵みを想う時が限られたものになってしまっている。
ルターは、忙しい時こそ祈ることにつとめたという。祈れない時は詩編をもって独り個室のこもるといった。
深い沈黙の中で、私は神のみ声にのみ呼び出され、その息吹に生かされるはずなのだ。
報告:
昨日、一昨日とナザレの家にてリトリートをいたしました。
恵まれたひと時でした。ファシリテーターには、聖路加大学、国際病院の成成鍾チャプレンをお迎えして基本的にはレクチオ・ディヴィナの作法に則る形で行われました。
(レクチオ・ディヴィナは、レクチオ(読書)、メディタチオ(黙想)、オラチオ(祈り)、そしてコンテンプラチオ(観想)の4つの段階を踏みながら神のことばを受け取り、またそれに生かされていく方法です。)
1日目、午後に集まって、オリエンテーションを行なってから黙想の実践に入りましたが、基本的には、この二日間は大沈黙として、参加者はお互いの間で自己紹介も含め一切話しをせず、神と自分との関係に集中した黙想の時間といたしました。
成先生はテキストから「子ロバ」に視点を当てながら、黙想のための4つのお話をされてそれぞれに15分ほどの黙想の時間を持ちました。その後には個人黙想と霊的同伴を実施。
二日目には、同じくテキストから3つの話をされ、それぞれに30分ずつ。また神の御用に用いられるという召命の出来事のたとえをマザーテレサのことばに触発されたヒントとなる短い5つのポイントをお分ちくださってまた30分ほどの黙想をいたしました。
午後にはまた個人黙想と霊的同伴を実施。
その後、大沈黙を解いて、それぞれに受け取ったものを分かち合いました。4人の神学生を含めて、教派を超えて20名以上の教職者たちが参加、全員が神の恵みと召しを新しく受け取るような聖なる時間をいただきました。
感謝します。