雲龍(石笛他)シャナ
観世銕之丞 他「清経」(能楽)銕仙会
坂井佑円 「阿弥陀経」(仁愛大学准教授)
・はじまりは、前奏としてのピア演奏。ゆっくりと静かに流れる音は、私たちの日常のさまざまな思いや感情の変化に寄り添うものであった。礼拝で言うならば、前奏でありつつ、招きであり、また私たちの祈りを集めるような黙想の時を感じた。
・その流れの中、桃井和馬氏の写真がスクリーンに映し出される。戦争や暴力、飢饉、災害と現代におけるさまざまな「死」の現実が映し出され、見るものの心を揺さぶる。死ということ、さらに死後の世界などといえば、なおのこと抽象的で哲学的な思考実験のように考えてしまうところがあるが、私たちが現実に向き合う「死」が突きつけられた。深い悲しみや嘆き、怒り、切なさといった感情が湧き上がってくる。そして、そこに生物である人間の限りある命の終わりとしての「自然な死」ということが含まれているのだが、むしろ、その死が人間自身によってもたらされる「歴史における死」というものがはっきりと示されたと言ってもいい。激しく心動かされつつ。そのどれにも心をとどめていくことのできていない自分が佇んでいることも同時に示された。現代の生きる私たちがどのように生きているものなのか。その姿を示されてくるようであった。また、聖書に描かれる人間の最初の死は、カインによるアベルの殺害(兄弟殺し)であるということが、どんなにこの私たちの現実をよく見つめたものであったかということを思い起こさせた。カインのように突きつけられ問われても、「わたしは弟の番人でしょうか」とうそぶく。たとえ自分が加害者であったとしても、それを認めないどころか、他者について自分は関係ないと言い張る私たちの傲慢、自己中心性。そんなことも心に思い浮かんだ。
・実は、ここにはおそらく宗教というものに関しての本質的な問題が立ち現れるところだと思う。芸術(アート)は、いのちの始まりとか終わりということを含めて、神秘を捉え求めようとする営みでもあろう。
ちょうど、あのパントマイムで蝶が追い求められたが、私たちの命の営みは、何かその真実なものを求め続けるように営まれる。捕まえたようでいて、もっと美しいもの、価値あるものを求める。捕らえたはずのものも、その過程の中で死んだようになってしまうこと。蝶を捉えようとするのは、自分の主体的な営みなはずなのに、実は自分自身がその蝶に捉えられていたのかもしれないこと。そしてその真実な営みこそ、いのちの自由な羽ばたきを持っていて、私たちの有限性を超えて見せる。そんな表現を、感じた。
・実際、いのちや死の問題は、私たちが自分の人生を主体的に生きるという日常的感覚とは異なり、生かされている、与えられているというような受動的な感覚、被造物としての存在のあり方に気が付かされるという側面がある。そして、実際に宗教的な視点はそうした主体としての自分の存在(自我、エゴ)というところからの解放ということが救いとして生と死の二元的対立を超える状態へと導くというようなことが多い。その導きとして、ある種の感覚を研ぎ澄ますようにして(自分を捨てる、もしくは擬死体験のようなものも含めて)自分に働きかけるものとの出会うところが、いのちの源泉のように見出されていくことがある。宗教はそうしたものを見つめているところがあるし、また芸術も同様だということが今回の表現を通して考えさせられた。
・だから、この午前中の一つひとつの表現(パフォーマンス)の中に、生と死、日常と非日常、生者と死者などの豊な交換を受け取ることができた。表現は、いのちの営みの中の真実の言葉を含むが、それが表現される時、言葉を超えて表現されている。当初予定されていた「声明」に代わって、「阿弥陀経」念仏の表現をいただいた後、演者の坂井氏が少し解説をくださったが、その時に「念仏はわからないと言われるけれど、わからないということが大切でもある」と話された。もちろん表現されるところでの言葉は、言葉にするということによって、ギリギリそこで見出されているものが多くの人に、同じように伝えられていくとい利点がある。だから、この「わかる」ということもとても大切だ。だが、言葉は人間の理性の働きによって、事柄を他のものから分け、区別して、それを引き出し、限定していく。そのことでひとつの事柄がはっきりと見出されていくのだけれど、真実は、いつも言葉によっては捉えきれないし、言葉以上のものであるわけだ。だから、言葉によっては決して「わからないということをわかっていなければならない」ものだということをお話しいただいたのだと思う。言葉を超える真実へ、私たちがどのように迫ることができるのか。これだけでも大変大きな課題だが、芸術的表現というものが、そのための鋭意であることを思わされたのだ。
・言葉はそれを捉え得ようとするものの主体が、捉えているものを対象として、言葉によって表現する。けれど、実は言葉にならない前、主客未分化なところに私たちのいのちの真実、そしていのちと死を分ける二元論を超える場があると言ってもいい。芸術的な表現をいただくとき、私たちは、自分とその表現が、ただ、観られるものと観るものという主客の区別の中にはおらず、むしろ、その表現そのものの中に引き込まれている。そこに芸術的表現の力があることが感じられた。
・また、宗教はおそらくその起源の時から、ある種の芸術的な表現ということの中で、このいのちの根源とのつながりのようなものを共有してきたのではなかったかと思う。歌、音楽、踊りや舞、儀礼、儀式、そして絵画や物語などが具体的にそうした役割を担ってきたのだ。そして、その表現される時間と空間の中にリズムとテンポなどを通して、今を生きる主体としての私が開かれて、他者と共に根源的なものに触れる体験が与えられるのでしょう。
・表現の中の「声や息」のことについてはご一緒させていただいた大内先生からもお話があった。そのご研究にぜひ学んでみたい。息は、聖書の言葉ではルーアッハ、ネシャーマー(ヘブライ語)あるいはプネウマ、プシュケー(ギリシャ語)となるが、いずれも風や霊、いのちということを表す言葉。これがラテン語で表されたのがスピリトゥスで、今のスピリチュアリティの語源となる。宗教性、霊性というものが芸術的な表現というものと「いのち」というところで深く通じ合っているということは、ある意味で当然なことなのかもしれない。
・お昼の時間に講演者同士で少しお話をした時、バッハの演奏の話題も出た中、西欧の音楽は、音楽としての古代のものから現代音楽まで大きな変遷が見られる。一方、日本の音楽はその点、非常に古いものが保存されているように思うが、どうしてなのかと、尋ねた。すると、それは日本の音楽はそれぞれ貴族とか庶民とかというように共有するところが固定化されてきたからではないかというご示唆をいただいた。それを伺って、確かにバッハのオルガン音楽は、宗教改革以後の教会音楽の展開の中にあるということが思い浮かんだ。ルターの宗教改革以前は、教会の賛美は聖職者や修道士など、特定の人々に限られていたのだ。しかし、ルターは礼拝改革を行なって全ての信徒・会衆が神のみことばに与り、また賛美をしてそれを分かち合うように、会衆の歌う讃美歌を礼拝の中に取り入れ、自身もたくさんの讃美歌を作詞作曲した。だから、そのルーテル教会で会衆が礼拝で歌うその歌声を支えるようなオルガン伴奏が求められるようになったわけだ。バッハはルターから200年後のルーテル教会の音楽家だが、その教会カンタータをたくさん作曲するということの中で、あのようなバッハの素晴らしい音楽が生まれたわけだ。同時に、西欧の音楽も近代の初めの宮廷音楽から、より広い聴衆を集めてホールで聴くという大きな発展を遂げてきたことが思い起こさた。より大きな聴衆が共に音楽を楽しむ。楽しませる音楽が求められるようになる。楽器も含めて音楽のあり方が代わっていく。芸術の表現の形は、誰とそれを共にしていくのか、その広がりの中で変わってくるのだということが思われた。
・実際、パイプオルガンは、そのオルガンとして楽器が存在するというのではなく楽器の置かれるホール全体が楽器としての響きを作りだす。そしてそれはそこにいる人々の存在、その身体も含めてそこにひとつの音が、音楽が現れてくる。そうした表現の共有、あるいは表現の中に一体化する人々の存在ということがいつでも新しい表現を作り出していくということだろうか。古典的な表現方法にはその表現が生まれてきた根源、源を大切にしていく伝統がある。しかし、同時にそれがいつでも新しい表現となっていくところの芸術表現の豊かさがあるのだということも考えさせられたことだった。
以上、午前中のパフォーマンスを聞いて、思い巡らしたことをメモとして残しておくこととした。