ドラマ「朝顔」は その第一シーズン放送開始した第一回目に取り上げた。
死者をして語らしめる。法医学者で監察医の朝顔の仕事は、さまざまな事件の被害者の解剖によって、その「死」に隠された真実を見出すこと。「死人に口なし」という一般的な考えを覆し、死者がその死の只中から何かを伝えていることを聞き取るのだ。見出された真実は、ただ事件解決につながるということだけではなく、被害者家族ら、その死を受け止める者が深い慰めを受け取ったり、その「死」によって断ち切られた何かを取り戻したりする。事件解決ものにありがちな…といえば、その通りだが、「遺体」となった死者自身が語るという、その手法に個人的に自分の関心が重なったのは間違いない。
しかし、ありきたりの事件解決ものとしてのドラマに奥行きを持たせているのが、主人公の万木朝顔の家族ドラマが、「事件」とは別に、しかし、それを反射しつつ「生」の重みを描いているところにある。とりわけその家族ドラマの背景にあの東日本大震災の被災の現実があることが、幾重にも「死」と「生」の深い結びつきを具体的に考えさせるものとなっているのだ。
朝顔は、震災によって母が行方がわからなくなり、10年経っても不明のままである。彼女は、母を失ったそのときの経緯から、母の死に自分の責任を感じてきたが、それはPTSDを伴うものとなって、母を失った地(祖父島田浩之の家)を長く尋ねられなかった。彼女の父、万木平(刑事でもある)は、そんな朝顔を気遣いつつ、しかし、彼は彼として行方不明となった愛する妻、里子を休暇のたびに探し続ける。もちろん、当初は生きた彼女を探し求めたが、すぐに遺体捜索に変わっている。探し続ける平の心は複雑だが、ただ妻を思ってその探し求めることがおそらく彼自身の「生」の支えなのだろう。朝顔の祖父、里子の父は、逆に平に遺体捜索を初めあまり快く思えない。平との関係に微妙な距離があるところが最初の描かれ方であった。一つ家族のメンバーは、それぞれに愛する人の「死」を受け止めようとしているのだが、同じ家族であってもそれぞれの関わりの中で、全く違った課題を抱えていて、それをわかりつつ、お互いにその固有の「きず」に触れることが難しい。生き残った者たちにはその意図は全くないけれど、それぞれの関係の中で愛する者を失った自らの「生」の格闘がお互いを傷つけているかもしれないことを恐れてもいる。こうして描かれ始めたドラマは1シーズン、2シーズンと進んでお互いの思いを率直に語り、またそうでなくても通わせつつ互いに癒やされてもいく。それでも、里子の喪失は、この家族一人ひとりの人生の大きなテーマであり続ける。
震災10年目を迎えることもあって、2シーズン3シーズンを連続して放映。久しぶりの大部なドラマ作りになっている。
やはり、この家族のドラマの方に比重を置いての作品となっている。里子の父浩之は自らの死へ向かい合い、平は認知症と向かい合う。その祖父と父の「生」の格闘を支えつつ、朝顔は新しい自らの家族を作りつつ、命をつないで生きることを見つめていく。
震災10年目を迎えるとき、復興そのものも遅々として進まぬ現実があるけれども、同時にその陰で、被災家族が格闘してきている長い悲しみを思わされている。このドラマはその一つの姿を描いているわけだけが、遺されたものの「生」が、愛する者の「死」の受容をテーマにしながらその傷を癒す時間と人間の絆の複雑さとしなやかさがこのドラマの豊かさとなった。
このドラマを通して、私たちが何を考えるのか、被災家族の痛みの姿に改めて迫るものとして描かれているように思った。
10年、確かにそれだけの時間は平等に過ぎていく。時間は積み重なっていく。けれども、実存的には、それぞれにこの時を受け止め、生きている。
忘れたくても忘れられない記憶。忘れたくなくても風化していく記憶。決して忘れないと抱いて生きている記憶がこぼれるように失われていく老いの現実。
これが命の証だと、遺体の、あるはその持ち物の一部でも、カケラでもいいから見つけたい。その人が待っていると探してあげたい。けれど、もし見出されたなら、どこかで生きているかもしれないという望みが消えてしまう悲しさ。そんなことはもう、とうにわかっている現実ではあっても、複雑な思いが今も抱かれ続けているのだろう。
やがて、それらの記憶は、思いは、切なさは、みな描き消えていくのだろうか。
震災、津波。その激しさを描くことはなかったけれど、その出来事を経験した家族の時間が描かれる。むしろ、この淡々と、しかし切なく流れる家族の時間が、災害を生きるということの一つの側面を描いてくれたように思われた。
付け足し:
一つひとつの事件解決においても、たくさんのいのちの終わりと遺された人々、そして、そこに生きている間には結ばれなかった新たな「絆」(コミュニケーション)が紡がれるところも本当に大切なメッセージでもあった。でも、ここでは触れない。