ナガミヒナゲシ
駐車場やちょっとした空き地にオレンジ色の綺麗な花を咲かせている。ここ10年ほどで日本中至る所に広がっているので、名前こそ知らなくても、気づかれた方も多いだろう。「これ雑草なの?」「植えたのかと思った」という人もいる。
ググればすぐわかるが、60年ほど前に東京で初めて観察された帰化植物だ。原産は地中海沿岸だが、今や世界中に広がっている。一果実に千粒を超す小さな種子が内包されていて、一本生えたら10万の種子をばら撒くと言われるほどに、繁殖力が強い。しかも、他の植物よりも圧倒的に強い生命力なので、瞬く間に日本中に広がっているのだ。
数年前から、キャンパスの中にもチラチラと見かけるようになった。ちょうど4月くらいから花をつけ始めるので、見つけると根こそぎ引っこ抜くことにしている。というもの、同じ時期に花をつけるカラスノエンドウ、野芥子、鬼田平子、和たんぽぽ、ヒメジオンなどがキャンパスに自生しているからだ。いずれも、キャンパスの中でいわゆる雑草として刈り取られる運命にあるのだけれど、小学生の時からこのキャンパス近辺で育った自分には、これらの雑草はいわばお友達。それらを押しやっていく外来種を野放しにしてはおけなかった。今年も、毎朝、一本、二本と見つければ、引き抜いている。
なんの疑問も持たないというわけでもなかった。ご近所にはすでに広がっていく様子を眺めつつ、ここにもあるなあと目を楽しませてもらってはいるのだけれど、ここだけは守りたい。君たちに入って欲しくないのだよと、引き抜くのは私のエゴではないのかと。
このなんとなく思っていた疑問が、今年はやけに胸に広がる。というのも、これはいわゆる特定外来生物には指定されていないということを知ったことと、実は今の新型コロナウィルスのパンデミックの状況の中で、現代社会の問題とは何かと考えさせられているからだ。
従来の自然を大事にすると言いながら、ある意味で自然に生えてきたものを駆除するのは人間の意図的なことだ。自然じゃないってことでしょうと、まあ言われても、この外来種は自然にはやってこなかったはずと答えただろう。
それは、ちょうどこのウィルス禍がどうして世界的広がりをこんなに急速に展開するのかということと重ねられる。現代の人間のグローバルな往来とあらゆる「もの」が商品として流通する世界が、自然のままなら機会のほとんどなかった植物の世界的な繁殖を可能にしているのだ。そして、武漢にとどまるべき「新型ウィルス」があっという間に世界の病気として広まる。
つまり、そういう現代世界の現実を背景にしているのは、ナガミヒナゲシもCOVID19もも同じことということだ。
その現象の中、このウィルス禍への対応に見出されるのは排他主義だ。感染拡大を抑えるために様々な経済活動が自粛、制限され、それに応じた補償が議論される時、その背後に誰がこの補償をえるのかという分断と切り捨て。普段の収入がどういう状況か、生活保護を受けている人はその補償の資格を初めから持っていないとか、日本国籍を保有するものだけだとか。同じ地域社会の中にともに生きるているということについて、どのように考えるのか。いつも同じことが繰り返し議論されるが、誰も区別なくこの禍の中に置かれているにもかかわらず、何かを排他主義的に切り捨てていこうとする。日本だけではなく、世界のいろいろなところで見られる状況がある。どうしても難民や路上生活者など社会的弱者はここでも支援から遠いものとされ、後回しにされている。
そんな問題を考えていたら、私がナガミヒナゲシを引き抜くことはこれと同じではと、急に心苦しくなったのだ。何を切り捨てているのか・・・
でもなあ。それなら放っておいて、もともとの自生種が追いやられていくのを放っておくのは果たして、どうなのか?人間がわざわざもたらさなければ、追いやられることもなかったのに、あっという間に新参者に駆逐されるとしたなら?
なんとも複雑な問いの中で、それでも一本一本と抜いていく私って・・・
どうやら、このナガミヒナゲシ、特定外来生物に指定されないのには理由があるようだ。つまり、周辺植物を阻害するアレロパシーはそれほど強くないのかもしれないということのようだ。
もしかしたら共生の道があるのかも。
でも、それはやっぱり長い長い時間をかけていくことなのか。
私の短いいのちに見る価値で判断しようなど、なんと愚かなことよ。
それでも、目の前の草花たちを大事にしたいと思ってしまう執着は、
愛ではなくて煩悩、慈悲でなく罪なのかも。。