新型コロナウィルスの感染拡大を防止するという目的で、政府は要請という言葉で、緩やかにしかしはっきりと国民生活の中に自粛を求め、それによって小・中・高の学校の休校のみならず、幼稚園から大学に至るまで臨時の対応へと押し流されているかに見える。
そうした中で、教会でも週日の祈祷会や集会を取りやめたり、また聖餐式のあり方を工夫したり、これをやめたり、さらに主日礼拝そのものを休止するとか教会施設を閉鎖する、など様々な対応が生まれてきている。
もちろん、そうした潮流に懸念の声も多くある。そもそも、その判断が何に基づいているのかと問うものもあれば、教会の使命や本質論から礼拝の中止を嘆くものもある。
私自身もいろいろと思うことがある。けれど、自分の言葉は一度飲み込んだ。まず、聞かないといけない。どういう判断がなされたのか。どんな対応を本当に教会として考えているのか。
それぞれが声を上げ、議論する。いいことだと思う。皆が考えてみたらいい。
でも、多様で良いと思うのだ。こうしなければならないという外面的なことで縛ってみても何にもならない。むしろ、この時にこそ、御言葉にきき、祈り、共に信仰の共同体として生きるということを各教会で考えるべきだと思う。そうして、礼拝の意味も、聖餐の豊かさも、信仰とは何かも、改めてそれぞれが学び、受け取っていく。
一つひとつについて教会は、牧師も信徒も、どう対応するか、そんなに軽々に判断していないし、揺れていると思う。そういう揺れや問い続ける心が大切なのだし、その中で話し合いながら、現代において、自分たちが教会に集うこと、礼拝にあずかることの恵みを今一度確かめるようにして工夫をしたらいい。大事なことは、この時こそ、不安な信徒一人ひとりを孤立化させないように、そして牧師たちもそれぞれがいろいろなことを考えて、手立てを作ること、支え合うことだと思う。
集う信徒の年齢層や地域性によっても異なる思いがそこに見出されるだろうし、悩みがあるのだ。そういう具体的なことを牧師たちは考えている。教団が号令かけてしまって、全国津々浦々で一律のやり方などを決めたり、神学的権威(そんなものはどこにも認められていない時代かもしれないが)がこうすべしと大上段に構えては、本当に必要な宣教、御言葉の喜びと平和を分かち合うこと、教えと学びを深めていくこと、一人ひとりに仕えていくこと、癒しととりなし祈ること、他者のために苦難を負うこと、そうして共に生きていくことの実際は無視されてしまうように思う。(まあ、必要以上の混乱を避けるように教団が決断すべきこともありうるけれど)むしろ、それぞれの地で、牧師と信徒が格闘していることに耳を傾け、祈り支え合う。そして、それぞれのあり方や判断を確認したり、その苦しさを支援する。そういう教団、教会でありたいものだ。どのような時にも、キリストはあなたのそばに あって、それぞれ、一人ひとりを見捨てず、裁かず、悔い改めと恵みのいのちへと導かれるのだから。
今の時代は複雑だし、本当に多様な可能性がある。それだからこそ、この時にこそ、それぞれの地域にたてられ、遣わされている自分の教会の性格を診断しながら、皆でこれからの自分たちの教会や礼拝のあり方、社会との関係、宣教のあり方を見直してみてはどうだろう。