2019-06-01

「キリスト教の信仰(神との関係を生きること)と交流分析」


日本交流分析学会で、特別講演。自分の専門ではない学会で、冷や汗をかきながら、お話しさせていただいた。




⒈  信仰を生きるということ

キリスト教の信仰は、何かの信念を持つことや教義を理解し信じ込むことではなくて、生きる神と具体的対話、交流を生きることであると言って良い。その意味で、信仰者一人ひとりは、神からの語りかけに応答して自らの人生を生きるものであり、この神との関係の中に自己自身と世界を受容し、過去から未来に向かう自分自身の歩みを進めていくことになる。
この神関係において、赦しと慰め、癒しを与えられることを「救い」と呼ぶ。つまり、救いは単に天国における死後の平安を意味するのではなく、具体的に生きられる人生へ希望と勇気をもたらす。そして、神の御心としての正義や公平、平和などの価値を求め、自分のためばかりではなく、むしろ他者のために生きることを喜びとする人生を選び、その決断を為さしめていく根源的な力を神から受け取る。




⒉ 交流分析の手法から

この「救い」を生きる状態は、交流分析の基本的構え「I am OK. You are OK.」の状態を生きるということと重なるだろう。交流分析は、具体的な人間関係のあり方(ストロークのやりとり)の中で、こうした「構え」(position)を得ることを見る。その意味で言えば、神との交流もまた、交流分析的に見ることもできるだろう。
神の人間への語りかけには、二種類のことばがある。一つは律法のことばで、人間のなすべきことを命令することばである。もう一つは福音のことばで、これは、私たちに対する絶対的肯定のストロークである。神の本来的な語りかけは福音のことばであって、非本来的な律法のことばに勝り、信仰者一人ひとりを生かす究極的な語りかけとされる。

⒊ 具体的な交流とそれを超える神との交流

この神との交流は、礼拝や牧会などの信仰的な「場」を基礎としながら、具体的には他者を通して与えられるが、その他者である具体的な人間とのやりとりを超える超越的なものとして受け取られるものである。それゆえに、逆に言えば、交流分析において捉えられる具体的な人間関係の姿とその意味を、信仰の世界は一旦超越的な神との関係の中におくことで、新しい姿と意味へと転換するものともなりうるということかもしれない。
 
 ⒋ 神のことば(語りかけ)によって、支えられる人生脚本

 信仰は、イエス・キリストご自身を究極的な神からの語りかけ(ストローク)として受け取ることであり、信仰者は、自らの人生の物語に、この神の語りかけにより絶えず新しい人生脚本を描きこんでいくことと言えるのではないか。