大杉漣さんの最後の出演作品となったこともあって、どうしても観たい映画の一つだった。
すでに刑が確定して収監されている死刑囚のうち、希望する者が、その「心情の安定に資する」という目的で面会を許されている宗教者と会うことができる。この宗教者が教誨師と言われるのだ。
この映画は教誨師である一人の牧師佐伯保が、6名の死刑囚との面会をしていく、その様子をただ淡々と描いている。実は、ただそれだけの映画で、特にその死刑囚が犯した特定の犯罪の真相に迫るとか、死刑確定の背後に冤罪が隠されていることを告発するとか、そういう類のストーリーは全く描かれない。それぞれにおそらく殺人を犯した罪に問われて、死刑という判決を受けたであろう人たち。その収監されている彼らが彼ら自身の思い、思惑を抱いて教誨師と会う。その姿を描いているに過ぎない。
教誨師は、彼らに犯した罪を悔い改めるように勧める。そういう務めを負っている。もちろん、刑務所としてそういうことを必ずしも期待されているわけでは無い。それでも宗教者としての務めとして、教誨師自身が受け取っているのだろう。実際、この映画の中でも佐伯牧師がそういうことを受刑者に促すような場面もある。そして、洗礼を受ける受刑者もある。しかし、この映画は、決してその宗教的改心のようなものが起こるということを描くことが目的でも無い。
では、いったい、何を描いているのか。
そこに描かれるのは、ごくごく普通の人たちなのだ。異常さと正常。受刑者と一般。それを区別する一線はどこにあるのか。少しだけどこかに思い込みや信念みたいなものがあったり、何となく弱さを含んだ人のよさ、優しさみたいなものがあったり、調子のいい言葉で自分の思いを吐き出したり、なんとか死刑執行を先送りできないかと画策してみたり。そういう一人ひとりのありのままの姿を描いている。現象としてそれを描くだけだから、その本人の心情は、推察するしかない。何を考えているのかは、私たち見ているものには決してわからない。ただ、淡々とそこに起こる人間を見る。そして思い巡らす。
確かに、幾分変わっている人であり、また、傷つきやすい人だったり、悪賢く何かを画策しているようでもあり。しかし、思えば、それはどこにでもいる人間の姿なのだ。そのどこにでもいる人が、きっと、あるときに人の命を奪うという、そんなどうにもならなさの中に生きることになったのだ。
そういう人間を、ただこの収監された閉じ込められた世界の中に描く。
ただそれだけで、人間が人間をさばき、命を奪うというこの事態に問いを投げかけているように思う。
罪を裁く。しかし、現実にはその罪を犯した人が、死刑を受ける。そんなことができるのか。この一人が死刑に処せられることと、私がここにいきていること。その間には、いったいどんな違いがあるのだろうか。
牧師佐伯は、結局、この仕事の中で、自分自身と向き合うことになる。自分は何者なのかという問いを抱く。実は、この映画で一箇所だけ回想シーンが描かれている。それは佐伯教誨師のものだ。そこには、まだ少年時代といっていいほどの頃、ちょっとした経緯(いきさつ)があり、兄が自分を守るために人を殺める場面が描かれる。人が人を殺めるということは、許されないけれども、そういうことが人間の日常の中で起こる。兄を思うこと、自分の中に渦巻く後悔。あるいは、自分の中に潜んでいたはっきりとした殺意。兄の行為は、自分のしたことだったかもしれなかった。
自分もまた、人殺しに過ぎず、刑を受けるものであったかもしれない。人間とはそんなものなのだ。私とはそのようなものに過ぎないのではないのか。
そんな私たちが 人をさばき、死刑に定める。その不遜な私たちの姿が透けて見えるのだ。どこで、あなたはその馬鹿げたありようをそのままにして、そこを立ち去り、自分だけ逃げ出してしまったのか。
私たちは、立ち戻るべきところがあるのではないか。
映画は、淡々と そう問いかけている。