2018-06-27

ポスト「宗教改革500」を 生きる教会

 今年、宗教改革500年をおえてあらたな歩みが始まる。そのことを自覚的に取り組もうとする教会が多い。
 日本福音ルーテル教会が日本のカトリック教会と共同で記念の時を刻むことが出来たことは、決してあたりまえのことではない。欧米では多くのところでこの記念を同じように過ごしたところもあるが、宗教改革という歴史を持たないアジアの地域で、この取り組みは今ひとつ自覚的な取り組みになりにくかっただろう。日本では、1984年から両教会の対話委員会が開かれてきていて、洗礼の相互承認も共同での翻訳や出版活動などを行ってきていた。そういう背景の中、欧米でやっているからとか、大きな記念の年だからというのではなく、なぜこのことに取り組むのか、何を目的とするか。そうしたことを丁寧に話し合いながら成し遂げたものだった。
 つまり、こうした歩みはルーテルとカトリックの両教会が単に仲良くなろうというということではなく、現代世界への福音宣教のためということがはっきりと確認されてきたことだった。
 だとしたら、その記念は決して過ぎてしまえばそれで終わりということではなく、新たな教会の歩みのスタートとなるべきものだろう。もちろん、カトリックとの間での話し合いからさらなる共同・協働などについてもこれから新しい歩みが始まっていくだろう。けれども、やはり自らをどのような教会としていくのか。そのことへの取り組みが是非とも必要。


各地域、また教会でも、そのことを自覚した学びがなされてきている。
私も、このテーマでは今年二回目の講演となる。学びを重ね、また各地域での考えや実践を丁寧につくりあげていくこと、情報を共有することなどとても大切なことと考える。
 近く、この宗教改革500年の取り組みの全体の報告書、日本福音ルーテル教会の東教区ビジョンセンターでの連続講演会の記録なども出来上がってくる。こうしたものを改めて学びながら、これからのわたしたちキリスト教会、ルーテル教会の歩みを宣教の脈絡のなかで豊かに味わい、造り出していくものでありたいのだ。
 


沖縄「慰霊の日」に

6・23 沖縄 慰霊の日

今年(2018年)、この記念式に沖縄に住む一人の中学生の作った詩が、本人によって朗読された。
この記念日に、私たちが何を心にとめるのかということを、これほどまでにすなおに表現された感性に出会って、本当に嬉しかったし、心打たれた。

自分の「今・ここ」で生きる、その当たり前が、どんなに尊いか。その当たり前を本当に当たり前とすることの責任は、誰のものでもなく、私たち自身が何を選び取り、生きていくのかということにかかっている。その当たり前を感じる感性。それを生きる歓び、あるいは切なさ。悲しみも辛さもしっかりと感じること。そして、その日常の中に何が隠されているのか、深く視る知性。社会と歴史の痛みは、人間の生活に刻まれたものだ。それをしっかりと見つめる勇気。その上で、自分の「今・ここ」を明日の世界へとつなげていく決意。

こういう若い方がいる。そう思うだけで、私たちが大人として、「今・ここ」をどのようなものとして残そうとするのか。その責任を重く感じる。
憲法の問題、教育の責任、原発の課題。今、何を論じ、何を決めて行こうというのか。
私たちは、何を決意するのか。

https://twitter.com/motomotom141/status/1011225109346914304

全文を、ここに記録しておきたい。

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平和の詩「生きる」    沖縄県浦添市立港川中学校 3年 相良倫子

私は、生きている。
マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、
心地よい湿気を孕んだ風を全身に受け、
草の匂いを鼻孔に感じ、
遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。
 
私は今、生きている。
 
私の生きるこの島は、
何と美しい島だろう。
青く輝く海、
岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波、
山羊の嘶き、
小川のせせらぎ、
畑に続く小道、
萌え出づる山の緑、
優しい三線の響き、
照りつける太陽の光。
 
私はなんと美しい島に、
生まれ育ったのだろう。
 
ありったけの私の感覚器で、感受性で、
島を感じる。心がじわりと熱くなる。
 
私はこの瞬間を、生きている。
 
この瞬間の素晴らしさが
この瞬間の愛おしさが
今と言う安らぎとなり
私の中に広がりゆく。
 
たまらなく込み上げるこの気持ちを
どう表現しよう。
大切な今よ
かけがえのない今よ
私の生きる、この今よ。
 
七十三年前、
私の愛する島が、死の島と化したあの日。
小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。
優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた。
青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。
草の匂いは死臭で濁り、
光り輝いていた海の水面は、
戦艦で埋め尽くされた。
火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、
燃えつくされた民家、火薬の匂い。
着弾に揺れる大地。血に染まった海。
魑魅魍魎の如く、姿を変えた人々。
阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。
 
みんな、生きていたのだ。
私と何も変わらない、
懸命に生きる命だったのだ。
彼らの人生を、それぞれの未来を。
疑うことなく、思い描いていたんだ。
家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。
仕事があった。生きがいがあった。
日々の小さな幸せを喜んだ。手をとり合って生きてきた、私と同じ、人間だった。
それなのに。
壊されて、奪われた。
生きた時代が違う。ただ、それだけで。
無辜の命を。あたり前に生きていた、あの日々を。
 
摩文仁の丘。眼下に広がる穏やかな海。
悲しくて、忘れることのできない、この島の全て。
私は手を強く握り、誓う。
奪われた命に想いを馳せて、
心から、誓う。
 
私が生きている限り、
こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、絶対に許さないことを。
もう二度と過去を未来にしないこと。
全ての人間が、国境を越え、人種を越え、宗教を越え、あらゆる利害を越えて、平和である世界を目指すこと。
生きる事、命を大切にできることを、
誰からも侵されない世界を創ること。
平和を創造する努力を、厭わないことを。
 
あなたも、感じるだろう。
この島の美しさを。
あなたも、知っているだろう。
この島の悲しみを。
そして、あなたも、
私と同じこの瞬間(とき)を
一緒に生きているのだ。
 
今を一緒に、生きているのだ。
 
だから、きっとわかるはずなんだ。
戦争の無意味さを。本当の平和を。
頭じゃなくて、その心で。
戦力という愚かな力を持つことで、
得られる平和など、本当は無いことを。
平和とは、あたり前に生きること。
その命を精一杯輝かせて生きることだということを。
 
私は、今を生きている。
みんなと一緒に。
そして、これからも生きていく。
一日一日を大切に。
平和を想って。平和を祈って。
なぜなら、未来は、
この瞬間の延長線上にあるからだ。
つまり、未来は、今なんだ。
 
大好きな、私の島。
誇り高き、みんなの島。
そして、この島に生きる、すべての命。
私と共に今を生きる、私の友。私の家族。
 
これからも、共に生きてゆこう。
この青に囲まれた美しい故郷から。
真の平和を発進しよう。
一人一人が立ち上がって、
みんなで未来を歩んでいこう。
 
摩文仁の丘の風に吹かれ、
私の命が鳴っている。
過去と現在、未来の共鳴。
鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。
命よ響け。生きゆく未来に。
私は今を、生きていく。