日本ルーテル神学校、2015年度の入学始業聖餐礼拝が4月2日に行われた。
その礼拝での説教。
『真理の霊によって生きる』ヨハネ14:15〜17
新しい年度を迎え、神学校には3名の新入生が与えられました。また神学基礎コースにも2名の方が学びをはじめてくださることになりました。それぞれに主のみ声に聞いて、ここに集められたのです。改めて、その恵みと導きに感謝を祈りたいと思うのです。
今年の、この入学式とオリエンテーションは、ちょうど受難週にあたりました。イエス様が十字架の死において、またご自身の復活によって、私たちに神の愛を表し、新たないのちを生きる道を開いてくださる。その出来事をたどっていく時です。
特に今日は洗足の木曜ということでもあって、お読みいただいた聖書は、ヨハネの14章。この洗足の後に主が弟子たちに話された告別説教と言われている個所です。イエス様は、弟子たちと共にいることがもはや限られているというはっきりとした想いのなかで、弟子たちに語られている個所です。だから、ここには、弟子たちにどうしても伝え残しておきたいことがみことばに刻まれている。弟子たちが、そして私たちが信仰に生きるためのみことばです。
繰り返し言われるのは、イエス様が神のものであったこと、父と子とが一つであったこと。そこに愛と従順があり、確かな繋がりがあったということですが、その一致によってイエス様が生きられたように、あなたがたも私キリストと繋がり、一つとなって、人を愛し、仕え合うようにと教えられる。それが神とキリストの一致に与って、キリストと一つになる信仰を生きるようにとすすめられているのです。キリストのみことばに聴き、愛に留まることで、弟子たちが確かな信仰のみのり、豊かな働きをもたらすものだという約束が語られているのです。
なぜ、そのことを繰り返しいわれるのでしょうか。それは、ほかでもなく私たちが信仰を保つことができず、主を見失う時が来ることを、イエス様ご自身がご存知だからなのです。キリストの内の留まることができない、信仰が見えなくなる。
福音書を書いたヨハネの時代の人々にとっては、おそらく迫害が一番大きなこととしてあったでしょう。しかし、あらゆる困難や危機、またそのなかに私たちを捕らえようとする誘惑、人間の思いが、信仰の根っこであるキリストに留まることを妨げる。そのことをイエス様はご存知なのです。だからこそ、繰り返し、信仰に留まるべきことを語っておられるのです。
しかし、そう教えられるだけではありません。主は、その時の具体的な助けを約束してくださっています。主のもとに留まり続けるということ、それは主が私たちに命じられ、また望まれていることですが、私たちの力にあまることだと主は知っていらっしゃる。それが本当に可能なのは、私たちの力ではなく、私たちを捕らえ、生かす、神の助け、真理の霊によるのだ、だからこそ、主はキリストにつながって愛する戒めを守るように、繰り返し教えすすめながら、神の働きにのみ救いを求め、信頼するようにと招いておられるのです。
そんなことは、私たちは分かっているつもりでしょうか。救いは恵みのみによる。信仰は神の働き。ルーテル教会で伝えられてきた信仰義認の教理は、鮮やかにそのことをしめしているのですから。でも、改めて、新年度を迎え、自分の召命を確認する時に、そこに私の出発点があると、深く心に受け止めたいのです。召命が尋ねられ、自分の信仰や取り組みを思う時だからこそ、私たちの信仰の源が主にのみあることを思い起こしたいのです。
この3月に、ちょうど今年が七十周年にもなった3月10日東京大空襲と、4年目をむかえた東日本大震災のことが何度か、テレビや新聞で取り上げられました。多くの犠牲者を生んだこの二つの出来事は、一つは戦争の悲劇、もう一つは自然災害の脅威です。全く違う二つのできごとなのですけれども、なす術なく、多くのいのちが奪われていったことにおいて共通しているのです。そして、その不条理さは私たちにとってある決定的な信仰の問いを突きつけているのだと、わたしは思います。
私たちが今日、宣教を考えるとき、そこにあるのはどのような言葉を持って信仰を分かち合えるのかという問題ですが、その答えは、この私たちの信仰への根源的問いを共有することを忘れたところには見いだされないように思う。
もちろん、こうした不条理の問題は、あの旧約ヨブ記において示されているように、古くから取り上げられてきた問題です。けれども、今日のように、たとえば原子力の問題が象徴的にそのことをしめしているのですけれども、神の創造された世界、一切を無にしてしまうような危機の前に立っている現代の人間精神には、神を信ずるということについて、決定的な問いとなっているように思うのです。
わたしは、今でもおぼえています。あの3・11のあと、しばらくして、テレビで人気歌手グループがうたった「夜空ノムコウ」という歌の歌詞が私たちの信仰の原風景をうたっているように感じられたのです。その歌は、こううたいだされるのです。「あれから、僕たちは何かを信じてこれたかな〜」。信仰の言葉は、あの時から虚しくなってしまったのでしょうか。
あれから四年が経って私たち東京に生活するものにとっては、そのことは次第に忘れられていっているのかも知れません。けれども、被災された方々の多くは、仮設住宅で細々と寒さを凌ぎ生きる人たちがいる。ふるさとに帰ることのできなくなった人たちがいます。放射能汚染の問題に発病や死の不安を持つ人々がある。自分たちの畑でとれたものを子どもに食べさせて大丈夫なのかと恐れる母親たち、自分は将来結婚して子どもを産むことを望めるのかと心をふるわせる少女たちがある。
私たちは、忘れようとしているのでしょうか。見ないようにして生きていないでしょうか。けれど、私たちはこの現実のなかにあるのです。
原民喜という人をご存知かと思います。原爆小説『夏の花』を書いたことでご存知でしょう。もともと左翼の活動家でもあり、詩人としても作家活動をしていました。40歳の時に広島で被曝し、その経験をメモしたものをもとに小説を書いたそうです。原爆を題材にした多くの小説のなかでも最もすぐれたものの一つとして評価されています。
たまたま、彼はその時にお手洗いにいたことで、あの原爆の威力から逃れ生き残ったのでしたが、その直後のあの広島に見いだされた惨状を克明に私たちの心に刻むことばが小説に記されています。その文章から、何もかもが吹き飛ばされ、燃えつくし、人々は影になって焼き付き、川に死に倒れ、あるいは生き延びても焼けただれ、顔は腫れ上がり、水を求めて彷徨う姿とうつろなまなざしが見えてくる。
彼は、その人々をかき分けるようにして避難する。その中で、一瞬彼に起こった思いというか、感情を記しています。
「私は狭い川岸の径へ腰を下ろすと、しかし、もう大丈夫だといふ気持ちがした。長い間脅かされていたものが、ついに来るべきものが、きたのだった。さばさばした気持ちで、私は自分がいきながらえていることを顧みた。かねて、二つに一つは助からないかもしれないと思っていたのだが、いま、ふと己がいきていることとその意味が、はっと私を弾いた。
このことを書き遺さねばならない、と、私は心につぶやいた。けれども、その時はまだ、私はこの空襲の真相をほとんど知ってはいなかったのである。」
この惨状のなかで、いきていることの一切の意味が見いだされないような状況の中で、かれは、生き残った自分に与えられた使命を感じるのです。天命として、この現実を書き遺す使命を、自分を弾くような衝撃とともに受け取ったのだというのです。その感覚は、少なくとも彼を捕らえ生かしたことだと思う。原民喜は小説家として、この使命を生きたのです。
けれど、それだけではもしかしたら何かが足りなかったのかもしれません。彼は、「夏の花」を書いてから4年目の1951年3月13日に吉祥寺と西荻の線路に身を横たえたのでした。
私たちが今の時代に、牧師としてたてられていく、その使命をどのように感じていますか。自分を弾くようにした感覚は、あなたを呼ぶ神様の声です。何をするように求められているのだろう。
私は確認したい。あなたを捕らえた弾くような感覚は、あなたへの確かな救いの出来事なのです。そして、あなたに与えられた使命は、この惨状・この不条理を記録することだけではなくて、「ここに、主がいたもう」という救いのメッセージを分かち合うことです。
それを可能にするのは、あなたを捕らえ、ここに導きたもうお方が、真理の霊であるという、ただそのことによっているのです。真理の霊。それは、嘘偽りなく、ごまかしもなく、この現実に向かい合って、その重荷を負って生きるための勇気と力、慰めであり、助けである神ご自身の働き、あるいは臨在なのです。そして、そのよりどころは、キリストの十字架にある。
キリストが十字架におかかりなって、「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」と、神が自分を見放したという叫びのなかに死にたもうこと。にも拘らず、その主が復活のいのちを示してくださったこと。その出来事が、あらゆる時にすべての信仰を支えるのです。一切が虚しくなってしまったのか、と思わされるその現実の中、その出来事があなたを捕らえているのです。その出来事が私たちを生かしているのです。その出来事が私たちの信仰をつくるのです。
皆さんが、信仰の歩みの中で聞き取られた召命の言葉。それは、間違いなく皆さんを導いています。もちろん、その歩みがどのようにかたちを整えてくるかは、分かりません。牧師になることだけが答えなのではないのです。けれども、大切なことは、あなたに語りかける声がある。あなたを生かす真理の霊がある。あなたを助け、あなたを導き、あなたを用いたもう主がいたもうということです。そのことへの信頼をもって、私たちの直面する一つひとつの現実に誠実に向かい合っていきたいと思う。
新年度、それぞれに召されてここに集っています。赦された歩みがどのように主によって整えられるのか、希望と期待をもちつつ、私たち自身もその恵みに応えていきたいと思うのです。